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y邸ドローイング

Y邸 Drawing(1996)


―これでいいのか、日本―

 1970年代、日本の各地方都市は「近代建築」の名の下に、良くも悪くも近代化に向かって邁進した。しかしその結果、産業構造は切り刻まれ、同時に日本の風景は無残にもずたずたになってしまった。日本は牧歌的な景色を打ち捨て、文化までかなぐり捨てて、空気も人も職業も経済という言葉の奴隷に成り果ててしまった。

 かつて日本には、それぞれの地域が長い年月をかけて培ってきた「財産」と呼べるものがあった。

 例えば、飛騨の高山では繭を育て絹を作っていた。佐渡、石見、足尾には金、銀、銅山があり、筑豊、夕張には炭鉱があって、各々に特有の村落が築かれた。北海道は鰊漁でにぎわい、山陰の伊根漁港には舟屋が建ち並ぶ。名古屋、金沢は絹や綿織物の生産地として繁栄した。日本六古窯の陶器の産地は、登り窯から上がる煙にむせびながらも脈々とやきものを生み出し続けていた。これほどまでに多様で豊かな風土と文化に育まれ、それぞれの村落には特徴的な家屋や集落が形成されていったのである。

 とりわけ染めは、地方の環境と深く結びつき、その地方の文化に寄り添いながら、素材と熟練工の技術や発想によって発達してきた技術の好例と言える。染めの技法の中でも、裃や小袖、羽織等の絵柄に多く用いられる「型」の技術は各地で著しく発展した。

 その独特のデザインは西欧諸国とりわけドイツなどでクローズアップされ、芸術活動に影響を与え、美術工芸学校の教材にもなっていたことはよく知られている。

 ピエト・モンドリアンやフランク・ロイド・ライトに代表される世界の芸術家たちは、日本の様式に着想を得て新しいスタイルへと導いた。我々日本人が産業発展の末に「文化」を捨て去ってきた一方で、彼らの目線からインターナショナルなデザインへと昇華されていったのである。

 今こそ、日本人が日本の文化を問い直す時代が来たことは間違いない。

 

―いたたまれなくなって始めた街並み行脚―

 1980年代初頭から、僕は日本全国の町村落や中小都市を歩き始めた。中でも、京都には何かがある。日本文化の礎のようなものを探したいとの思いから、京都の町を来る日も来る日も歩き回った。1200年の歴史を持つこの京の街並みを何百本ものフィルムに収めていった。そうするうちに、京の建築の遺伝子と呼ぶべきものに出会った。それは発見とショックの連続で、僕の建築家としての新たな活動の起源となった。

脈々と受け継がれる遺伝子が、京の街並みを構成している。

その過去に負けてはなるまいとの思いから、現代に生きる遺伝子を継承しながら、さらに更新していくことに焦点を当て、1件、1件の家を施主と共に造り上げてきた。

もう早や70歳を迎えてしまった。そして今、その思いを整理したいと考え始めた。

未だ、日本の都市、日本の街は経済という虚構の、巨大な波に一方的に押し流され続けている。なんとか、僕の想う建築の在り方と、経済とを擦り合わせた姿が見つからないものかを頭の片隅に置きながら、ホームページらしくないホームページ作りに挑戦することとした。読みづらくても誰かが読んでくれるだろうと、本の様なエッセイ方式にしたい。

 

―ついでのついでにお伝えしたいこと―

“彼”がまだ小学生の頃、初めて僕のアトリエへ父親と遊びに来た。

その時、「ふむ。この子供、いける。」と直感した。

「お前は建築家になれ。」

僕が建築家としてやっていること、楽しいことを語り、会う度に「わかっているな。なるのだ。」と言い続けた。

そして15年後、とうとう建築家を目指して僕のアトリエに。「来たか。」

孫のようなその若者は、関谷 虹という。

彼を2012年の春、まだ早いかと思いつつもアトリエの代表に据えた。

これから以後、少しでも多くの人と巡り会い、建築を語り、都市を語り、マルチ・アーキテクトとして成長してくれることを期待して、今日も議論に議論を重ね、仕事に専念しているところである。

さすが我輩が見付け出した若者、本人には聞かせられないが、僕の自慢の種である。

これからも皆様に、ご支援いただけますようお願い申し上げます。

山本良介

 

西陣

西陣地区(京都)昭和50年頃

接吻

ベーレンス 接吻 1898

西陣

モンドリアン コンポジション 1940 

西陣

桂離宮 下地窓 17世紀 

西陣

帝国ホテル/ライト館 照明 1923

西陣

染の型紙 江戸時代

 

 
 

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