山本良介アトリエ+関谷虹

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嵯峨大覚寺の家

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作品名 嵯峨大覚寺の家
敷地 京都市右京区
用途 個人住宅
規模 木造2階
面積 延床180.55㎡
掲載誌 住宅建築 1985.01 日経アーキテクチュア 1991.11-25
受賞歴 第18回 吉田五十八賞特別賞 対象作品

撮影:松村芳治


独立して2作目。嵯峨大覚寺の参道から少し横手に入ったところに建つ家である。

当時、施主とのお付合いは既に10年を越えていたが、ある日突然「ところで、山本君の職業は何?」と問われた。

うそぉ、職業もわかってもらっていなかったとは。。。と驚いたが、気を取り直して、若手建築家のバリバリですと答えた。

「はよ言いなはれ。」

その社長は、知り合った時点から数えても既に本社ビル、関連会社のビル、お付合いの店等4棟は建てられていた。時折僕に、玄関ロビーはどんな雰囲気が先端なのか、それも京都の呉服商としたらどんなイメージの建物がいいか等と質問されるので、たぶんこれからの時代は・・・と夢のようなことを言っていた。

当然、建築家を目指す人間と知ってのお話だろうと思って答えていたのだが、、、施主にすれば、聞けば何でも答える面白い男という認識だったらしい。

「山本君、建築家の駆け出しなら我が家を設計してくれるか。ただし、数寄屋でなかったらあきまへん。」

よりによって数寄屋造り。数寄屋って何?しかも社長曰く「終末の論理の家」でなければならないという。ますます訳が分からない。

終末の論理の数寄屋とはどんな家かと尋ねると、ぴしゃりと一言「あきまへんなぁ。あんたはんに頼むのやめますわ。」ますます困ったことになった。 とにかく、僕の考える終末の数寄屋を考えてきますと約束した。

「ほな、なんかもっといで。」

また、いつだったかこんなことも。「山本君は万博のお祭広場と太陽の塔をやったんやて?ますます無理やなぁ。丹下健三、岡本太郎さんところやそうどっしゃろ。超モダン爆発芸術でっしゃろ。」冷や汗がドッと出たのを覚えている。

それでも必死に考えた。わかった、終末の家というのは、社長が死んだ時の葬儀が滞りなくできる家だ。これしかないと思い、計画案の平面図を3案描いて持って行った。 「そうや。やんなはれ。」


それから、やったこともない数寄屋について猛勉強。辛かったことこの上ない。 堀口捨巳、吉田五十八、村野藤吾といった数寄屋建築家の作品、平田雅哉棟梁や水澤工務店の仕事、桂離宮などを見学にあちこち駆けずり回った。しかし、いずれも僕の思考外の作品。何かが違う。

そこで、何はともあれどんなプランができるかに集中することにした。そのうちに数寄屋の姿形が見えてくるかもしれない。寝食も忘れて没頭した。 そうして、葬儀を想定した終末の家の平面計画が10案ほど出来た。 受付から、御挨拶、お焼香をして退場するまでの流れを考える。祭壇は北側に据え、供花を並べる。導師さんの控え室と入場の導線、親族席の位置まで事細かく想定し、さらに、式中滞りなく賄いが出来るような配慮も必要だ。


当然のことながら、日常の生活についても十分に検討した。また、京都の人間にとって家相は欠かすことが出来ない。入口玄関は巽の方角に配し、棟数は奇数の5棟とした。 その内に僕らしい現代数寄屋と呼べるものになってきた。
ようやく出来上がった3案を持って社長のもとへ。「このうち山本君はどれが良いか。」と聞かれたので、造ってみたい案を指した。「いい家にしとくれやす。」


自分にもこんな建築が設計できるのかと思った。

竣工すると、社長は「いい家になりましたなぁ。」とニッコリ笑われた。

そして一言、「いい建築家になんなはれ。」 今思い出しても不思議な社長との仕事であった。

嵯峨大覚寺の家は、吉田五十八賞の対象建築の1つにもなっている。


 

 
 

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